奈良市高畑地区には昭和初期の多くの文人・画家たちが住んでいた。
大正14年(1925)、志賀直哉は京都の山科から、奈良の幸町の借家に居を移した。 彼が奈良への引越しを決めたのは、かねてからのあこがれであった奈良の古い文化財や自然の中で、自らの仕事を深めて行きたいという希望からであった。 なを、当時すでに奈良の高畑に住んでいた、作曲家の菅原明朗や、画家の九里四郎など、奈良にあこがれを持っていた 多くの友人たちの強いすすめによるものでもあった。 やがて直哉は、昭和3年、自ら設計の筆をとった邸宅を高畑裏大道に造り、翌4年、ここに移り住むことになった。 この高畑裏大道の一帯は、東は春日山の原始林、北には春日の杜を透して飛火野の緑の芝生が展開するという、静かな奈良の町の中でも特に風光明媚な 屋敷町で、新薬師寺や白毫寺にも近いという土地がら、やがて多くの文化人がこの家に出入りすることになる。 また彼の新居とその周辺は、鎌倉時代頃から、春日大社の神官たちの住んでいた社家の跡である。この古い屋敷跡の崩れかけた土塀や古い柿の木などが、 春日の杜に調和する独特の風情は多くの画家たちのこころひくところであったのか、画家や作家などの文化人が、彼と前後して高畑に移り住んできた。 志賀邸はこうした人々のサロンのようになり文化活動の核となったことであった。 直哉は新居の建築に当たって、彼の好みから数奇屋造りに巧みな京都の大工に依頼したが、数奇屋造りを基調にしながら、広い洋風のサンルームと娯楽室を付加している。 いかにも当時流行の白樺派の面影を伝えるものであるが、古い文化と美しい自然の中に、こうしたハイカラなサロンのあったことが、奈良に集まった当時の文化人たちの、 心楽しいものであったにちがいない。 しかしこの屋敷へと彼らの足を向わせたのは、なんといっても志賀直哉の、高潔であり、人をわけへだてしない広い心と、 高い理想を持った彼の芸術にひかれるものがあったからである。 こうして彼は当時奈良の水門町に住んでいた武者小路実篤らとともに白樺派文化の中心を奈良高畑に開花させたが、ここを中心に、関西一円の古美術行脚も盛んにおこなっていた。 そして昭和13年に東京へ移転するまでの間、奈良、京都を中心とした有名な古文化財のほとんどを見て、それらを彼の心にとらえることができた。 その間創作した作品の代表的なものは、彼が尾道時代から手がけてきた大作「暗夜行路」の後編の完結であったが、 そのほかに万暦赤絵、晩秋、山科の記憶、邦子、豊年虫、雪の遠足、リズムなどの発表がある。 やがて奈良の充実した生活も、直哉の心に反省をうながすときが来る。 奈良の古い文化や自然の中に埋没して、時代遅れになろうとしている自分を見、かつまた子供の教育を考え、東京へと居を移したのである。 今回、奈良文化女子短期大学セミナーハウスとして更正し、建築細部まで旧に復して、白樺派の香り高い志賀邸の面影を永く保存することになった。 高畑に住んだり集まった文人・画家たち 武者小路実篤(白樺派の文人であり画家)、細野菊(文人)、小林秀雄(文人)、滝井孝作(文人)、尾崎一雄(文人)若山為三(画家)、小野藤一郎(画家)、 足立源一郎(画家)、中村義夫(画家)、浜田葆光(画家)、梅原龍三郎(画家)、九里四郎(画家)、小見寺八山(画家)、山下繁雄(画家)、新井完(画家) (以上パンフレットより抜粋) 表玄関 玄関・受付 庭園への入り口 池と通路 書斎 建屋内部の夫人の居間 同居間から中庭の様子(ローアングル) 多くの文人や画家たちが語り合ったサンルーム 隅には直哉像も置いてありました。 サンルーム横の食堂 庭園には多くの木々も育っています。 #
by poron_55
| 2008-08-19 09:37
| その他風景
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